浄土真宗本願寺派・高島組の由緒ある法座「十日講」は今から約400年前、江戸時代・寛永のころに始まったと伝えられています。

織田→豊臣→徳川と目まぐるしく政治や経済が大きく変動していった中で、悲しくも本願寺教団のお念仏聴聞の道もその影響を受けました。

影響を受けた最も象徴的な出来事は、本願寺教団の東西分派です。江戸時代の文禄・慶長まではひとつであった本願寺教団が「本願寺派(お西)」と「大谷派(お東)」に分派したのです。お家騒動という側面もあるのかもしれませんが、政治的側面が要因であったと伝えられています。本願寺派は豊臣側、大谷派は徳川側という政治的な位置づけをされたのです。分派の後、多くの寺院が大谷派に所属していき、本願寺派の存続は厳しいものとなりました。当時の御門主であった准如上人はその危機を打破すべく東奔西走されます。道中で台風に見舞われた准如上人は、今津・泉慶寺に避難のために滞留され、その知らせを聞いて集まったたくさんの先達と法縁を温められました。

先達は、このご縁を「十日講」と称し、約400年も経った今日まで続けてくださいました。「十日講」を継続することが決して容易ではない厳しい時代もあったはずです。それでも、お念仏のみ教えを自身の拠り所とし、み教えを「聴聞」する場として「十日講」を継続し、お念仏の救いの中で一生懸命、私達に命を繋いでくださいました。

そんな先達のご苦労と努力により、現代の暮らしは物的には豊かになりました。しかし、先達が自身の拠り所とされたお念仏のみ教えを私達に繋いでくださったのに、悲しいかな「おかげさま」と心から言えない煩悩に眼が遮られた自己中心で心が豊かではない私がいるように思えてなりません。

そんな私が「聴聞」させていただき、先達への感謝の念を持つとともに、私自身の暮らしを見つめ、お念仏のみ教えに出遇わせていただくご縁を結ぶ法座が、この「十日講」です。