有名な石山戦争(1570~1580)も終結・文禄元年(1592)本願寺第11世法主顕如上人示寂せられると、長男教如上人が継職せられたが、翌年顕如上人のお裏方(如春尼)が次男准如上人への顕如譲状を豊臣秀吉に示されたので、准如上人に本願寺第12世を継がせた。すべて秀吉の勢力下の事であったが、それから5年後秀吉は薨じ、徳川家康の勢力隆盛となり関ケ原戦争は終結した。教如上人はかねてより徳川家康と親交あり、慶長7年(1602)家康は教如上人の為に京都烏丸七条に東本願寺を建て、使を諸国に派し宗徒のこれに帰すべきを論示した。
このため、准如上人のご苦労一方ならず西本願寺教団護持のため東奔西走された。特に近畿はもちろん北陸方面へは幾度か御巡教になったようである。当時近畿地方より北陸に向かう旅行者は周知の如く概ね北国街道即ち西近江路を海津を経て敦賀に出るのを順路とした。しかし時には大津打出(うちで)の浜より琵琶湖上を海津の港に舟行する人もあった。
准如上人は北陸御教化にこの水路をとられたのである。時恰も八月十日暴風雨の季節で一天俄かにかきくもり、風波激甚となり、途中漸く今津に上陸し中浜の泉慶寺に宿泊せらることとなった。何分その頃の御門主様とて侍従の僧侶はいうまでもなく役僧、坊官、数多くの従者で泉慶寺は一方ならぬ混雑であった。到着せらるや、大疲労にもかかわらず本堂に仏前参拝、御門主様御導師で正信偈と御和讃三首引を草譜で勤められた(道光明朗超絶せりより三首、普通は六首引であるがあまりの大暴風雨のため本堂は大ゆれ今にも倒れんばかり、外は被害激甚にて一時の猶予もなかったようである)そして暫時御法縁を温められ親鸞聖人鑽仰と他力の信心を説かれたのであった。爾来浄土真宗本願寺派(西本願寺派)滋賀教区高島組においてはこの事を因縁として、毎年八月十日を期し、十日講と称して当時そのままを再現して、組内の法中参集のもとに法要(正信偈三首引)を厳修することとなり年々法義相続が行われてきたのである。そしてこの由緒ある御勝縁が末永く伝えられるようご門徒の方々一人よりも二人、二人よりも三人と、また地域的にも一人でも多くの方がこの御勝縁に遇えるように、御本山よりは御門主様の御使僧を迎え、高島組の南中北の三部(南部:鴨川以南11ヶ寺[現在10ヶ寺]、中部:鴨川と安曇川の間11ヶ寺、北部:安曇川以北11ヶ寺)で一日ずつ厳修されることとなった。天保11年西本願寺第20世法主広如上人は由緒ある御法縁を益々末永く伝えられるようにと念願されて特に御消息を下附され、本山より御門主様の御使僧として然るべき布教使を派遣されて今日に及んでいる。
なお由来による八月十日より三日間は新暦に改定せられたことと、八月十日前後は盆前で各寺の準備の都合や御同行の都合をも考え合わせて、初秋八月下旬三日間(八月二十五日、二十六日、二十七日)厳修するようになったのである。
三首引されている和讃
(初重)
道光明朗超絶セリ
清浄光仏トモウスナリ
ヒトタビ光照カムルモノ
業垢ヲノゾキ解脱トウ
(二重)
无明ノ闇ヲ破スルユエ
智慧光仏トナヅケタリ
一切諸仏三乗衆
トモニ嘆誉シタマヘリ
(三重)
仏光測量ナキユヘニ
難思光仏トナヅケタリ
諸仏ハ往生嘆ジツツ
弥陀ノ功徳ヲ称ゼシム